■ ノーベル賞の「揺り籠」づくり 加藤尚武

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「ポスドク」があふれる

 日本人の科学者の中からノーベル賞受賞者が4人も選ばれた。だが、「後が続くのか」という心配が浮かび上がってくる。

 小学生から大学生まで「理科離れ」の現象が著しい。かつては花形だった理学部の物理学科だが、東大や京大でも将来性のある研究者が不足している。大学院の博士課程は、就職できない研究者のたまり場と化している。

 「大科学者になる夢」を見て博士課程に進んでも、場合によっては、人生が泥沼にはまったような状態になる。

 特に、理数系の大学院生の質の低下が顕著である。博士資格をとっても就職できない。就職できないので博士課程のまま在学する。そんな研究者は、和製英語で「オーバードクター」、あるいは英語の「ポストドクトリアル・コース」(学位取得後の研究課程)にあやかって「ポスドク」と呼ばれたりする。

 だが、たいていのポスドクは40歳前後に消えていく。

 「消えていく」というのは、郷里に帰って母校の事務職員になるとか、研究者としての職を捨てることを意味するが、大学とは連絡を絶ってしまう人が多い。

 最近は、年間に1万6000人の博士が生まれ、就職する人が35%、「消えていく人」が9%といわれる。残りがポスドクとなる。彼らは予備校や塾でアルバイトをしたり、大学のなかで臨時の職につくというような生活をしている人が多い。

 原因のひとつは、大学院の定員を増やすという文部科学省の計画が実行されたためである。

 1991年の大学院重点化計画で大学院(博士・修士)定員を10万人から20万人にする計画が立てられた。現在の在籍者は26万人に達する。

 定員を満たさないと、国から支給される予算が削減されるため、ポスドクがたまっていく道理だ。

《研究者の自立性が欠如》

 学生の「理科離れ」と並行して、あらゆる領域で「若手研究者の自立性の不足」が指摘されている。

 たとえば、先生から指示された仕事は有能にこなす修士課程の新入生が、自分で新しい問題を立てたり、自力で問題解決の道を切り開く力がない。

 日本の科学研究は先進国に追いつく段階から、先進国の一員として最前線に立つまでに発展した。

 しかし、若手研究者の能力は逆に、「お手本として示されたコースがないと走れない」という体質に変わってきている。

 自立性欠如の原因として第1に挙げられるのは、受験勉強の徹底化である。

 中学・高校の6年間、受験勉強以外の事柄には何も興味を持たないようにするほど、受験対策が徹底化するようになった。そのため自然探求の奥深さ、数理の不思議さに魅せられるといったことがない。

 むしろ受験の目的を離れて、根本的な真理に関心をもつような人間にならないようにする。

 学校も父母もつねに生徒・子弟を監視し、管理し続けていく。

《高校教員になる資格を》高校教員になる資格を

 第2に、教員を教員養成大学の出身者が独占するようになったことである。

 教員養成大学では、教職のための単位を多く設定するが、もともと理学部に入学することのできない水準の学生に、文科省の指導要領にほんの少しだけ内容を継ぎ足したような理科教育指導法の教材を使って、教員を養成している。

 だから高校などで科学の魅力に目覚めかかった生徒が高いレベルの知識に興味をもっても、それを指導していく力が彼らにはない。

 第3に、世の中全体が金銭的インセンティブで動かされるようになってきているという風潮がある。

 無駄なことに関心を持つな。あらゆる努力を金銭的な報酬と結びつけてのみ考えよ。世界的に、あらゆる領域の学者が金銭的報酬を主たる目的として意識するようになった。それは1970年代からの現象であるといわれている。

 自然科学と数学の領域で博士の学位をとった人に高校の教員となる資格を与えるべきである。

 単に資格を与えるだけでなく、教職に就く権利を与える。そうすれば研究者となることを断念して、一生、高校の教師として人生を送るという選択の余地を作ってやることができる。

 高校の教科書の範囲を超えて、受験勉強には役に立たないもっと高い水準の研究領域に目を開かせることのできる教師が、どこの高校にもいなくてはならないのである。

 そういう教師が高校の教師から大学の教職に戻る機会に恵まれれば、「教える」ということの訓練を高校で積んだことになる。

 科学や数理の、高校の教材が示すよりも高くて深い領域に目を開く可能性を切り開くことが、将来の大物研究者を育てる揺り籠(かご)として必要である。(かとう ひさたけ=京都大学名誉教授)